いつもありがとうございます。
やんぴです。
先日の記事
「ある」の認識「段階」のお話~「『ありのまま』を見る」についての補足~ にて、
回答依頼のあったコメントに対する
回答・解説を記事にしていきたいと思います。
まずはコメントから見ていきましょうか
========コメント内容========
konohananaco
またまたコメントすみません。
やんぴさんにお願いがあります。
よく108さんが「ラーメン食べた充足と本願が叶った充足は同じ」とおっしゃいますよね?
これがまだよくわかりません。
ラーメン食べた充足
と
(例えば)大好きな人から連絡が来た
↑これが同じな訳ない、と思ってしまいます。
これも比較するから生まれるとは思うのですが、どうしても
ラーメン→小さな充足(当たり前)
好きな人から連絡→大きな充足(凄い嬉しい!)
になっちゃいます。。
腑に落ちた人が
「充足に大小を作っていたのは自分だった!大きい小さいなんてなかった!!」
というのを読むと???なのです。。
これもわかるわからないではなく感覚的なものかもしれませんが、ここのところをやんぴさんの言葉でお聞きしたいです。
きっと別の視点で書いてくださるはず!と勝手に期待しています。笑
お時間ありましたらよろしくお願いいたします。
=========================
konohananacoさん、
コメントありがとうございます。
コメントにお答えしていく前に…
konohananacoさんは
というブログを書いていらっしゃいます。
「引き寄せの法則」に関する
すごく「等身大」のブログとなっていて、
今、このブログを読んでいただいている皆様が
「私、一人じゃなかったんだ」と思えるような
素敵なブログです。
もしよろしければ、立ち寄ってみてくださいね♪
では、konohananacoさんの
「ご期待」にお応えしていくことにしましょう。
まずここからいきましょうか
>よく108さんが「ラーメン食べた充足と本願が叶った充足は同じ」とおっしゃいますよね?
>これがまだよくわかりません。
私は108さんではないので、
108さんの意味するところと同じ、とは言えませんが、
あくまで、私の立場から、お答えさせていただきますね。
まずは「質」という観点で、
考えてみましょう。
「質」というのは
「充足」とか「不足」といったもので
「『~をした時の』充足」
「『~をした時の』不足」という場合の
「~をした時の」を除いたものになります。
具体的には、
↓のイメージが「充足」という「質」だと考えてください。
この「質」の上に
「~した時の」が乗り、認識されます。
「ラーメンを食べた時の充足」なら
↓こんな感じです。
「本願」は便宜上「結婚」としましょう。
「本願が叶った時の充足」は
↓こんな感じです。
この2種類の「充足」を並べてみた時、
↓こんな感じです。
↑のイメージから、
「絵」は違うが、
「ラーメンを食べた時の充足」と
「本願が叶った時の充足」の
「『質』は同じ」
ということが出来ますね。
ですが、続いて、こうなるわけです。
>ラーメン→小さな充足(当たり前)
>好きな人から連絡→大きな充足(凄い嬉しい!)
このことを説明するために、
先ほどの絵に少し手を加えましょう。
先ほどの2つの「充足」のイメージに
赤枠を追加してみました。
赤枠は、私達が「知覚」する領域です。
ところが、私達は
「知覚不全」なんですよ。
「知覚不全」に関しては
108さんの著書「DEBUG」に詳しく書いていますね。
※「DEBUG」は、「不足を疑う」「荷を下ろす」「既にある」にかなり直接的に関係している考え方です。このブログを読んでいる方や、「不足を疑う」「荷を下ろす」を実践し「既にある」の気づきに至る途中の方で、まだ「DEBUG」を未読の方は、必ず読むようにしてください。この考え方がない限り、必ず同じところで同じような躓きを繰り返すように「現実」というプログラムは出来ています。繰り返しますが、まだ「DEBUG」を未読の方は、必ず読むようにしてください。
「知覚不全」なので
「知覚」の領域は信用するに値しないので、
「知覚」の領域を除いて見てみましょう。
↓こんな感じです。
「質」の上に乗っかっていた
「知覚」を取り除くと、↑のようなイメージになります。
「質」だけが残るイメージですね。
こうなると
先ほどの比較結果の
「『絵』は違うが」はなくなりますので、
「ラーメンを食べた時の充足」と
「本願が叶った時の充足」は
「同じ」
と言えます。
「知覚」の領域 = 「エゴ」の領域です。
その領域を除いたときに見えてくるのが
>「充足に大小を作っていたのは自分だった!大きい小さいなんてなかった!!」
です。
「知覚」「エゴ」の領域から判断するから
>ラーメン→小さな充足(当たり前)
>好きな人から連絡→大きな充足(凄い嬉しい!)
となるわけです。
(「質」での判断ではなく「絵」としての判断結果)
「知覚」「エゴ」の領域から判断しない時、
「知覚」「エゴ」の領域を全く信用せずに判断する時、
「ラーメンを食べた時の充足」と
「本願が叶った時の充足」は
「同じ」です。
以上が、コメントへの
私からの回答と説明、となります。
また何かありましたら、コメントくださいね♪
さて、回答・説明としては以上なのですが
この質問を足掛かりに、
「不足」と「現実」についても見てみるとしましょうか。
「不足」を表すイメージは
↓こんな感じです。
一番外側に見えて、最背にいる黄色が「充足」
一つ手前に見える黒色が「不足」
赤枠が「知覚」「エゴ」の領域です。
「不足を疑う」ってあるじゃないですか?
あれって「知覚」の領域を疑っているわけですよ。
この「不足」は本当にあるのか?
と、赤枠内部を疑うわけです。
赤枠内部は
「知覚」「エゴ」の領域で
「本来存在しない」ものなわけで、
私達の「知覚」「エゴ」によって
「この『不足』はあるんだ」という定義を
握りしめて主張し続けることによってのみ
存在し続けられるわけです。
そこを疑うということは
「この『不足』はあるんだ」という定義を
握りしめて主張し続けることを
「やめる」という行為なので、
一瞬にして、この「不足」は
存在することが出来なくなり、
↑「荷が下りたような感覚」=「充足」を感じるわけです。
「現実」は私達の「認識」に呼応する形で変貌します。
「不足」を常に感じていて、
「充足」をほとんど感じていない人の場合、
「現実」のベースとなる「認識」のほとんどは
↑の赤枠内なので、
そこから生成されている「現実」は
↓こんな感じです。
ほとんどが「不足」で
たまに「充足」があるようなイメージです。
一方
「荷が下りたような感覚」=「充足」
を常に感じていて、
「不足」をほとんど感じていない人の場合、
「現実」のベースとなる「認識」のほとんどは
↑なので、
そこから生成されている「現実」は
↓こんな感じです。
こうなると「引き寄せた!」となるわけですが、
ここに至るまでに「知覚」「エゴ」の領域を
信用しなかったり、疑ったりして来ているわけです。
なので
「現実」という「知覚」「エゴ」で
捉えられる一つの「現象」についても
もはやあまり気にならなくて
「どうでもいい」って感じになります。
そうなるとその人の「認識」は
ひたすら
ですので、
引き続き「充足的」な「現実」が展開され続け
「なんだかわからないけど(どうでもいいけど)、上手くいってる」とか
「なんだかわからないけど(どうでもいいけど)、今月もお金が入ってきた」
となるわけです。
ところが、罠もあって
「引き寄せた!」となった人は、
「知覚」「エゴ」で捉えた「現実」を
一瞬「信頼する」わけです。
信頼した「知覚」「エゴ」の領域は
最初の例の「絵」の領域です。
↑の赤枠の領域では同時に
↓「不足」が展開されることもお話ししましたね
なので「引き寄せた!」となることは
また「知覚」「エゴ」を信頼し、
「不足」を認識する機会を作ることにもつながるのです。
「最初の頃に1回だけ、大きな引き寄せ体験をしたけれど…今は『引き寄せ難民』です」
みたいな人は、
「引き寄せの法則」を知った時は
見えない世界(「知覚」「エゴ」の領域以外)を
積極的に採用したので「結果」が出たわけです。
見えない世界(「知覚」「エゴ」の領域以外)と
見える世界(「知覚」「エゴ」の領域)は相反する概念なので
どちらかを採用した分
もう片方が採用されなくなります。
見えない世界(「知覚」「エゴ」の領域以外)を
積極的に採用する
ということは
見える世界(「知覚」「エゴ」の領域)
を採用しない
ということになります。
見える世界(「知覚」「エゴ」の領域)
を採用しない
これは「不足を疑う」の姿勢と同じことです。
最初の頃は108さんに教えられなくても
違う経路で「不足を疑う」をやっていたんです。
なのにその「結果」を見る際
↑のように「知覚」「エゴ」を信頼して、
それ以降も信頼し続けているから、
今「引き寄せ難民」なんです。
で、「不足を疑う」を実践すると
最初の頃にやったことと、
同じことをやることになるわけです。
なので、効果が出るんです。
以上がコメントを足掛かりにした
「不足」と「現実」についてのお話と、
最後少し「不足を疑う」についてのお話でした。
いかがでしたでしょうか?
今回は初めて「イメージ」を使って
記事を書いてみました。
すごく簡単なイメージにはなりましたが、
皆様のご理解の手助けになれば幸いです。
あと、途中強調して書きましたが、
108さんの著書「DEBUG」を未読の方は、
必ず読むようにしてくださいね。
では、今回の記事はこのへんで♪
お読みいただき、ありがとうございました。